百田兄弟
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ご存知日本プロレスの始祖力道山先生のご子息だ。弟の光雄さんとはよく試合をやった。小柄な身体ながらスタミナがありテクニックにキレがあった。もう何百回と試合やったなぁ…。その中でも思い出に残るのは私の持つ世界ジュニアのタイトルに先輩の光雄さんが挑戦した試合だ。当時の光雄さんの人気は凄まじく私は全くの悪役(笑)。辛うじて私がタイトル防衛となったが印象に残っている。日本マットで初めてトペスイシーダをやったのは百田光雄さんだよ。昭和50年の力道山13回忌の時に❗️兄の義浩さんは長くリングアナウンサーをやられてた。その後レスラーに転向したけど期間は短かったな。私は都内で結構一緒に呑みに行った。義浩さん行き付けの庶民的な焼き鳥屋があってよく誘ってくれた。義浩さんはホッピーを飲んでたなぁ。むろん私も付き合う。私は何でもござれ❗️(笑)焼き鳥も旨かった。飲んで食べていろんな話をした。もちろん父力道山の話とかもね。因縁の木村政彦さんの話も出てきた。木村政彦はプロレスラーとしては力道山の先輩。力道山は一貫して「木村さん」と呼んでたらしい。木村政彦は最初は「力道山君」。途中から「リキさん」に変わったと義浩さんは言っていた。木村政彦はアメリカ、南米とレスラーとしてはかなり苦労してたようだ。スポンサーもいなかったらしい。あくまでも義浩さんの話だが。とにかく力道山のスポンサー筋に驚いていたのは事実のようだ。力道山は行動派だったから。もう修行中から日本テレビが記録媒体として映像が残っているんだよね。政界財界にタニマチ筋。日本にプロレスの灯をともすため必死だったんだね。まだ10歳成らずの義浩さんは間近で見て記憶に残っていると言っていた。木村政彦はよく池上の力道山宅に来ていたようだ。力道山生存中はそんなに仲が悪いようなことはなかったと長男の義浩さんは言ってたけどねぇ。まぁ、対シャープ兄弟戦なんかも義浩さんとの話を思い出しながら書いてみるか。
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渕選手へ
ブログ拝見しました。試合ですとファミリー軍団VS悪役商会を思い出します。プロレスラー同士の宴はどのようなお話が繰り広げられるのでしょうか。試合のお話と同じく興味深いです。是非とも続きのお話を綴って頂きます様、お願い致します。暦の通り、少しずつさわやかな風に変わって来ました。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。
お疲れ様です。僕が初めて全日本の試合を観に行った時の第1試合が百田対寺西でした。ベテラン同士の渋い試合運びで最後はバックドロップで百田さんが勝利したのを覚えてます。そしてその日は割と至近距離で渕さんを写真に撮れたので、大満足でした(笑)