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我が青春の70年代

公開日: : ブログ

70年代初頭から私はプロレスラーになりたい気持ちが強かった。1971年、高校3年の私は遅ればせながらアマレスを始めた。レスリングが好きだったこともあり、なんと1ヶ月足らずで県大会優勝。夏のインター杯、秋の国体にも出場。さすがに全国では優勝は無理。和歌山国体の時、一般の部で優勝した鶴田さんを見た。むろん話など出来ない。遠くで見つめていただけ。圧倒的強さで優勝してたな。翌年、オリンピック出場したんだよね。72年、私は一応大学に入学したんだが、夏に家出同然で北九州を後にする。ジャイアント馬場の日本プロレスからの独立に居ても立ってもいられなかった。まだ18歳だった。ジャイアント馬場は子供時分から私のナンバー1ヒーロー。そのヒーローが新たにプロレス団体を興す。私は勝手に退学届けを出して東京に向かった。72年の夏、まだ全日本プロレスは創立前。産声をあげるのは9月になってから。私は茅ヶ崎市でアパートを借り、デパートの店員として働いた。殆んど毎朝早起きして茅ヶ崎海岸を走った。デパートで働きながら身体鍛え
た。その年の10月、あの鶴田さんが全日本入団。スポーツ新聞で知り驚く。生意気にも「負けてたまるか!」の気持ちを持った(笑)。私の入門は73年3月。すぐには入門しなかった。18歳、19歳…。青春まっただ中〓人並みに恋をしていた(笑)。ともかく、73年3月、練習生として入門。緊張しまくって馬場さんに挨拶。当時一番の新人は鶴田さん。その後輩としての入門。目白の合宿所でいろいろ話す。鶴田さんはすぐに渡米。私は練習生として地方巡業に連れて行ってもらったが、父の急病の為、北九州に戻ることとなる。再入門は1年後の4月。父を説得してでの再入門だった。本格的な我がプロレス人生がそこから始まる。鶴田さんはすでにデストロイヤーと並んで馬場さんに次ぐ大スター。テレビ中継は夜8時のゴールデンタイム放送であった。

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Comment

  1. より:

    渕選手へ
    プロレスラーへの道のり、拝見しました。レスリングとの相性が良かったのですね。国体出場なんて素晴らしい事です。夢に向かって行動開始されて…是非、続きのお話を綴って頂きます様、お願い致します。まだ気候が安定しておりません。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。

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